第五福竜丸と江頭

新藤兼人の「裸の島」は好きな映画だ。これは離島に暮らす農夫一家の日々の営みを一切セリフのない実験的な作風で淡々と描かれた作品である。あんまり気に入ったので主演の殿山泰司のエッセイ集まで買ってしまったが、「裸の島」についての記述はホンの少しだけだった。

世の中が原発の事故で大騒ぎしているので、以前に新藤監督の「第五福竜丸」のDVDを買おうとして結局買わなくてそのままになっていたことを思い出した。今はネットオークションがあるので大抵の映画は思いついたらすぐに観ることができる。

第五福竜丸」は理不尽な被曝事件を過剰な情緒を煽ることなく淡々と描いている。新藤監督はいつも淡々としている。前半で描かれる海の男達の生活に関する情報量はとても多い。遠洋漁業とは文字通り人海戦術なのだが、私もすっかりいいおじさんになってしまったというのに、この映画を観るまで、船元、漁師、船長、漁協らの関係や航海の採算管理について考えてもみたことがなかった。丁寧な日常の描写の積み重ねが、これに続く被曝という非日常性を浮き彫りにする。航海中に漁師らを和ませていたギターは、被曝露呈後の船体調査で無造作に廃棄されることになる。この非情な対比の演出はお見事と言う他ない。

この映画後半でクローズアップされる久保山さんは実在した人物である。彼が被曝事故で亡くなった時、日本人の心は一つだったのではないだろうか。当時の日本人は米軍がもっと情報を隠しているのではないか、と疑った。多数の犠牲者が出ている今般の原発事故で日本人の心は一つだろうか。平成23年の日本人は日本政府がもっと情報を隠しているのではないかと疑っている。

ちょっと思い出しただけでも放射能汚染をテーマにした映画には「ゴジラ」「渚にて」「復活の日」などがあるが、今回の「第五福竜丸」ほど汚染を身近に感じながら鑑賞したのは初めてだ。とっくの昔に精算した筈の借金が「まだ残っている」と言われたような気分になる。

打って変わって、汚染の風評被害陸の孤島と化したいわき市に物資を届けたという江頭2500デシベル(本人曰く)のネット動画を同じ日に観た。江頭とアシスタントが延々とお喋りを続けるだけの低予算な番組だ。今後、こういうものは増えていくのだろうか。パンクロックやポップアートのアーチストらがある種の気概をもってブチ壊そうとしたものが最初から壊れているのが21世紀のネット社会なのかもしれない。映画くらいしか手段がなかった時代には必要とされた才能や努力がなくとも、「伝えたい」という気持ちさえ確固としたものなら、情報発信が誰にでもできるようになってきた。これまでより多数の発信者が、これまでより少数の受信者を対象に語りかけるネット社会。多極化が加速して「日本人の心が一つ」だなんてますますおとぎ話になっていく。