人擁法反対運動の病巣

月刊誌に人権擁護法案反対派の自民党新人議員らによる対談が掲載されている。大変興味深く読んだ。この記事によりいくつかの点が鮮明になり、ぼんやりと考えていたことがクッキリと像を結んだ。

稲田朋美はいわゆる小泉チルドレンである。私はこの集団に概ね好意的であるが、とりわけ彼女については年齢、ルックス、発信するメッセージの全てがストライクゾーンど真ん中であり、携帯電話の待ち受け画面に使用していたほどであった。信じられないことだが、稲田朋美は対談で「人権擁護法案治安維持法だ」と発言している。単語としては治安維持法を2回も用いている。これにはもう笑うしかないだろう…。

稲田朋美を国会議事堂から放り出せ。

治安維持法は、国体の変革を企図する勢力を取り締まる法律で、我が国の赤化防止に大きな役割を果たした。保守漸進の立場に立てば、可能な限り小さな政府であることが好ましく、極論すれば国家は治安維持法の目的とする機能を果たしてさえいれば事足りる、と考えることができる。治安維持法が徹頭徹尾、適切に運用されたとは言い切れず、不幸な事態を招いた歴史を否定することはできないが、冤罪として被疑者が釈放されたケースは多数ある。暗黒時代と一部から揶揄される戦前にあっても、司法は一定の機能を果たしていた。

戦前は軍国主義が横行する暗黒社会であり、敗戦後、日本国民はそれらから解き放たれ、自由と民主主義を獲得した、というのが左翼勢力の典型的な論法である。支援者との集会等では軍歌にのせて美声を披露することもある、と漏れ伝え聞いている、あの稲田朋美がよりにもよって戦前暗黒時代論者の軍門に下ったとは驚愕と落胆を禁じ得ない。自称憂国の志士、自薦保守良識派を思考停止、総白痴化に追い込みつつある人権擁護法案反対運動に潜む病巣には底知れないものがあるようだ。

この記事にはいくつかのヒントが示されている。複数の対談参加者が、この反対運動はインターネット上に活発な動きがあると言及している。この日記でも繰り返し述べているが、「人権擁護法案は平成の治安維持法である」という陳腐極まりない言い草はmixiやら、そこ、ここのブログやらに嫌になるほど溢れ返っている。遺憾に堪えないことではあるが、我らが稲田朋美は易々とこれに洗脳されてしまった、と断ぜざるを得ない。

ネット上の言論とはどのようなものであろうか。その最大の特色は編集者、発行体の不在である。言うまでもないことだが、これには長所と短所がある。長所は、これまで一部の者の言わば特権だったマスへの情報発信が誰でも手軽に出来るようになったこと。まるでパンクロックのようだ。やりちゃんの日記ですら一日のヒット数が総体で100を超えることもある。先日は盗作まで体験した。短所は、その情報が玉石混淆であることだろう。ネット上には尤もらしい常識のウソが溢れている。その取捨選択は一重に閲覧者の自己責任である。私は90年代後半からパソコン通信、ネットニュース(ニュースグループ)の海をあてもなく泳ぎ出した。他では読めないような面白いものもあったが、それにたどり着くまでに、稚拙で陳腐でどこかで見たようなものを嫌というほど読まされなければならなかった。スパムと言えば迷惑メールを指すが、以前は「またこれか」というニュアンスもあったような気がする。ネット上の言葉はパソコンなり携帯なりで作成されるので、コピー、加工がとても容易だ。尤もらしい言説は、たとえそれが誤りであっても強力な繁殖力で増殖する。普段見識の高い人でも、ついついスパムオピニオンを口走ったり、自分のブログに綴りたくなる誘惑に駆られるのではないだろうか。CMソングを思わず口ずさむことは誰にでもあるが、その言論バージョンである。東洋版鉄の女と勝手に期待していた稲田朋美も、憐れその餌食と成り果てた。

悪いことばかりではない。対談には同じく自民党田中派馬渡龍治も参加していた。彼は対談の最後に、一つのエスニックジョークを例に引きながら、「日本人は独自の国柄で社会を回してきた。何もかも法律でがんじがらめにすればよいというものではない」というような発言をしている。中坊公平は生前「慣習、モラル、道徳の下に法律がある。法律さえ守っていればよいのではない」と言っていた。この二人の言葉は、保守主義における「法による支配」を指し示しているものに違いない。何を保ち、何を守るのか。それは明文化されていないものを含めた人の道、オキテではないのだろうか。これをよりどころに社会を漸進させるのが保守主義者の立場である。世の中は「保守」のバーゲンセール、メルトダウン、インフレの様相を呈し、さながら紙屑同然だが、馬渡龍治に一筋の光を見た。短いシンプルな言葉の中に確かな保守漸進の精神の手応えを感じることができた。心から救われた思いがした。

余談になるが、不祥事を起こした防衛省の次官が「天皇」と呼ばれていた、という報道は不愉快であった。本物の天皇は、皇祖皇宗の遺訓に沿うことの求められる存在だ。これは「王と言えども神と法の下にある」という西洋発の法による支配とも整合性がある。好き勝手に振る舞っていた次官は単なる俗物に過ぎない。

「人権の定義が曖昧で恣意的な運用が懸念される」というのも反対派の言い分だ。対談にも繰り返し登場した。左翼がそう言うのならよくわかる。それは狭義の法治主義で、法による支配ではない。条文に書かれていないから何が起きるかわからないと騒ぐ稲田朋美は本当に保守主義の弁護士なのか。そのような司法の現実がある、というのなら、最早それは人権擁護法案だけの問題ではないだろう。反対派の「人権擁護自体を否定せず」が本心であるならば、懸念するような運用を排し、適正な判例を重ねていく道を模索するのが保守主義者の立場である筈だ。