日本の主権者は誰か

下記は、あるmixiコミュニティでの私の発言の一部ですが、この日記では取り上げていないテーマだったので、掲載します。

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日本の主権者は誰か

主権とは絶対無制限の権力という意味だと思います。関連法規を整備して、皇帝なり、王様なり、大統領なり、酋長なりを、ある国家の絶対無制限の権力者と規定することは可能です。けれども、国民を絶対無制限の権力者と規定することは不可能です。なぜかって?「こくみんはいっぱいいるから」です。

ある国家が右に進むか、左に進むか、の岐路に立ちました。皇帝や酋長が主権者なら、「右じゃ」「to be left」と言えば済みます。ところが、国民を主権者にしようとしても、右に行きたい人もいれば、左に行きたい人もいます。現実問題として多数決で少数派に涙を飲んでもらうような場合、国民は絶対無制限の権力者である、という前提は崩れます。思い通りにならない絶対無制限権力者なんて語義矛盾もいいところ。マザーグースもビックリです。日本国憲法は社会契約論というフィクションをベースに編まれていますが、この立場に立つとするならば、国民の意志は、最後の一人が納得するまで議論を尽くし、一般意思という更なるフィクションに集約されていきます。このプロセスなしに国民は主権を揮うことはできません。日本共産党はこの実現の為に民主集中制という手法を党内で用いています。旧ソ連スターリンは、「一般意思に集約されにくい」人物に自己批判を強いた上でその命を奪いました。実に念入りなことで、ある意味完全犯罪です。一般意思が集約されてい
ます。

国民は絶対無制限の権力者、即ち主権者ではありません。「それでは、一体誰が日本の主権者なの?」と尋ねられたら、私なら「日本では、総理大臣や議員、裁判官や地方自治体、その他国民を含めた様々なものが権力を分かち持っていて、主権者の特定は困難ですが、他国から領土、領海、領空の侵犯を受けたり、国民が不当な扱いを受けた場合には、国家全体として主権を揮い、これを排除します。」と答えます。これが実現できる社会であって欲しいものです。

「日本は、国民主権です。」と言う時には、突き詰めて考えれば、その制定の経緯を含めて、日本国憲法には様々な思いがあるけれども、戦後の数十年間に渡り、日本国民がこの憲法と共に歩んできた事実には重いものがあるし、何よりも、かによりも、今上天皇陛下が「憲法を守りましょう」というお言葉を述べられていることでもあるから、社会契約論他もろもろのフィクションを、大人の会話として受け入れた上でのことだよ、というコンセンサスが前提条件になります。