続・テロに屈した善光寺

昨日の日記には、マイミクシィの方などから多数のご意見を頂いた。これを踏まえて、北京オリンピック聖火ランナーへのテロ行為について、再度私の考え方を示すことにする。

聖火ランナーは、リレーの行われる国の人が選ばれるものだ。長野を走るランナーは、共産主義者でもなければ、中国人ですらない。チベット人への迫害とは何ら因果関係の無い人物が危害を加えられたり、不愉快な思いを強いられたりするのは、著しく理不尽なことであり、これはまさにテロリズトの行動原理と合致する。聖火リレーの妨害行動はテロだ。そして用地提供を拒んだ善光寺は、テロに屈したことになる。人に道を説く宗教人として見下げ果てた行為だ。善光寺はそもそも聖火リレーには似つかわしくない場所であった、とするブログが無数にあるが、古来より神仏合習の日本人は宗教観が大らかで、寺の境内を祭りに提供する例はいくらでもある。小学校の体育館を投票所に使用することに違和感を覚える者はあるまい。世界的な催しであるオリンピックの聖火リレーのスタート地点が、寺の境内であっていけない法は無い。修道院か何かと混同しているのではないだろうか。一連の報道を受け、私の批判は主に、

イ.聖火リレーを妨害するテロリスト
ロ.テロリズムに屈した善光寺
ハ.これを立派な行いだ、と称える者

に向けられている。(イ)無関係な第三者への暴力的手段による政治アピールは排除されねばならないし、彼ら自身に理の無いことを自ら証明している。(ロ)テロに屈することは、アピールが効果を持つ、というサインを送ることになる。テロリストは次なる標的を探すだろう。(ハ)これらを称賛することは、結果的に(イ)、(ロ)の行いの片棒を担ぐことになる。

当の中国に対してはどうか。民族問題は複雑である。コソボは独立したが、今度は、国内に残ったセルビア人が少数民族となり、彼らは迫害に遭うことを懸念している。韓国併合も一つの例になるだろう。朝鮮人はこの歴史を不当な植民地支配だ、と考えている。多くの日本人と一部の朝鮮人は、半島のインフラ整備、教育水準の向上に、かつての我が国が寄与した面については無視できないものがある、と考えている。後者について、実は私もその一人だ。ゆえに、「中国共産党チベットの近代化に貢献した」と指摘されると、「うーむ、迂闊なことは言えないな。」と考え込んでしまうのである。半島に関して、普段私と近い立場を採っている人が、無内省に「チベットに独立を」とか「善光寺でかした」などと言っているのをみると、私としては「……。」となってしまう。ある意味、羨ましくもある。その意味において、左翼の雄、アトラス選手がチベットを応援するのは実に一貫した態度である。いつものことではあるが。

限られた情報の中で判断するならば、チベットで人々の何らかの衝突があったことは事実だろう。そしてこの話は今に始まったことではない。修正目標である民族の「高度な自治」が達成されていない、というダライ・ラマの証言には信憑性があるように私は感じた。読者の方から指摘のあった点で言えば、日本政府はあいりん地区から報道陣を締め出すことはしなかった。結果としてこれだけの騒ぎになってしまったのだから、中国政府には事態を収拾する責任がある。日本政府が情報開示を求め、彼らが態度を変えないのなら、「抵抗しましたよ」というアリバイ工作のような五輪ボイコットではなく、経済制裁でリスクを取るべきだ。人の生き死にがかかっている。声を届かせる必要がある。

これもまたご指摘のあった点だが、歴史上「うんうん、あれは実に正統な共産主義国家だったね」というものが実現したことはない。日本共産党中国共産党は、ほぼ同時期に発足し、前者は主にインテリ、文化人にシンパサイザーを求め、分離結合理論により「正統な」共産主義を追究して、その前衛たらんとしたが、国内には浸透しなかった。後者は農村社会に着目し、着々と勢力を拡大し、現在に至っている。日本共産党にも中国共産党に共鳴する一派があったが、ミヤケンに排除されてしまった。ミヤケンや不破が歴史の改竄を繰り返したように、「あれは正しい共産主義ではない。いや、これも違う。」ということを繰り返していると、らっきょうの皮をむくようなことになってしまう。一般的に反共を標榜する者は、その理論の瑕疵を論難するのではなく、これを実現する過程での弊害を問題視している。事実関係の全容が明らかにされたわけでもないが、いわゆるチベット人の弾圧は、中国共産党政府の無謬性、正統性とのギャップから生じたとされている。その一般的な文脈におい
て私は「日本の聖火ランナー共産主義者ではなかろう」と発言した。