言葉狩り批判

最近のマスコミは偏向していて信用できないので、インターネットの情報の方が正確だ、ということを言う人がよくいる。ヤラセ報道が次々と告発されているし、マスコミ報道が鵜呑みにできないのは確かだが、だからと言ってそれがインターネットの方が正確だ、という根拠にはならない。むしろ責任の所在が不明確な分、信頼度は低い。個人が主にパソコンを使って情報発信することから、安易なコピー貼付けの氾濫で似たような論調ばかりという逆説的な展開が散見される。本当はもっと多様性が発揮できる媒体の筈なのに。

ブギの女王・笠置シヅ子の「買い物ブギ」はまさに神憑りの名曲である。古き良きミュージカルを思わせるオーケストラやハンドクラップ、コーラスに乗ってマシンガンのような関西弁がはじけるミスマッチ感覚は他では得られないものだ。現在この曲は公共の電波に流すことはできない。インターネットで検索すると、「買い物ブギは『つんぼ』『めくら』など言葉狩りの被害者だ。こんなにいい曲なのに」というような主張がたくさんみつかる。言葉狩りイコール不当規制という固定概念が確立されていて、これを疑う者はいない。買い物ブギで「つんぼ」「めくら」はどのように使われているか。

たまの休日に大量の買い物を依頼された女が値段を尋ねたおじさんは何度呼び掛けてもつんぼで返事をしなかった。メモを渡したおばさんはめくらで読めなかった。盆と正月が一度に来たような騒ぎが徒労に終わってしまった。ああ、しんど。というオチである。

この場合、おじさんやおばさんは店番をしていたのであるから、独自のコミュニケーション手段が他に用意されていた、と考えるのが自然である。女はそれらを試みることなく「相手がつんぼやめくらでは、買い物の用が足りない」と勝手に結論付けている。このような内容の歌曲をもう放送するのはよそう、というのは常識的で妥当な判断である。ところが、「言葉狩りは常に不当だ」という固定概念が思考停止を生み、「買い物ブギは言葉狩りの被害者」という誤った言説がインターネットに垂れ流されることになる。放送局や出版社であれば、「ちょっと待った」と言う者が一人くらいはいる筈である。個人のブログ等では、書き終わった瞬間に送信されている。夜中に書いた恋文を朝になって破り捨てるというようなことがもっとあってよいのではないか。

以上、私の日記が途切れがちになる言い訳である。

余談であるが、ネット上では、うめ吉や松浦亜弥による買い物ブギが視聴できる。地上波に乗ったもののコピーらしい。「つんぼ」「めくら」は歌詞から省かれてはいるが、ストーリーはそのまま継承されている。「規制するのならこちらもやれ。そうでなければただの言葉狩りではないか」という批判であれば支持できる。