人擁法反対運動の欺瞞

最近、人権擁護法案の反対運動への参加呼び掛けをネット上でよく目にする。かなり前から話題になっているので、あえてここで説明はせず、自分の感じた違和感を述べるにとどめる。いわゆるタカ派、右寄りと目される人々が人権擁護法案反対運動の中核を担っている。彼らの大義名分は、曰く「言論の自由が侵される」である。

左翼勢力、市民運動家らが「○○の自由が侵される」「○○の権利が侵される」とヒステリックに叫び、タカ派、右寄りが「何言ってやがる」と嗤う、というのが私にとって見慣れた光景である。ところが、こと人権擁護法案については状況が逆転しているようだ。前述の典型例には「○○が侵される」に続いて「これでは戦前の暗黒時代に逆戻りだ」という決め台詞のオプションがつく。どうか笑わないで聞いて欲しいのだが、同法案反対派の衆議院議員戸井田徹(自民党)は、自分のブログで「人権擁護法案は平成の治安維持法だ」と訴えていたのである。この他のブログや掲示板にも、さすがに「戦前」というキーワードこそ用いられてはいないが、同法案が施行されると世の中が真っ暗闇になる、という記述は散見された。盗聴法案が審議されていた際に左翼勢力や市民団体は、まるでこの世の終わりがやってくるような騒ぎ方をしていた。同法が施行されて久しいが、果たして現在の日本社会は真っ暗闇だろうか。また、人権擁護法案について「ダメなものはダメ」という切
り捨てもあった。これは土手たか子が消費税導入の際に吐いた論議を避け、思考停止を促していた台詞だ、と知っていて敢えて使っているのだろうか。

思うに、人権擁護法案反対派は、支那人朝鮮人を自由に罵倒する権利を守りたいだけなのではないだろうか。反対派は、同法が施行されると北鮮による日本人拉致事件の解決が遠のく、とも主張している。韓国の新しい大統領は先代よりもずっと日本寄りで、自国の拉致被害者の救済にも積極的な姿勢を示した。この問題の解決について我が国と協調したい、とまで述べている。これに注目する反対派議員、活動家のオピニオンを見かけることはない。「これこれこうの理由で新大統領は信用ならない」というものすらない。次期大統領選挙を控え、米ブッシュ政権は、既に死に体と言われているが、北鮮のテロ支援国家指定の解除に反発する勢力は、まだ政権中枢にも残っている。これに注目するのは被害者家族会くらいのものだろう。人権擁護法案反対派が、真に国益を考えているかどうかは大いに疑問だ。

前にも書いたと思うが、特高警察に追われた日本共産党員が、路傍の土木作業員に「労働者の味方、日本共産党だ。」と助けを求めたところ、作業員は特高を助け共産党員を取り押さえたという実話が残っている。「労働者の前衛」を標榜していた日本共産党は、実は社会全体から遊離していた。一方、二・二六事件を引き起こした青年将校の助命嘆願書は、全国の幅広い層から大量に政府に届いたという。当時の右は国民から支持されていたのだ。戸井田徹人権擁護法案反対派のブログのコメント欄には、「マスコミに躍らされたバカ国民ばかりだ。日本はじきに破滅する。」というような言説が溢れている。私には彼らの姿が「愚劣な民衆に革命理論を注入しよう」と息巻いていた日本共産党員とダブって見えてしかたがない。

民族主義は右の一形態ではあるのだろうが、人権擁護法案反対派のような者達が保守派を標榜していることには違和感を覚える。政治用語における保守は、漸進と不可分の筈だ。異民族を排斥して核武装するという「保守派」諸君の主張は最早漸進どころか、むしろ急進であり、保守というよりは革新と呼ぶべきものだ。私自身は大日本帝国憲法こそ我が国の正統な基本法であり、教育勅語と共に復活せしめることが好ましいと考えているが、新憲法の下で我が国が敗戦後の復興を遂げ、国際社会に復帰した実績は揺るがし難いものであると感じるし、今上陛下も現行憲法遵守、国連尊重の旨のお言葉を述べられている。このことが概ねの国民の公約数であることを考え併せれば、異民族の排斥や核武装は現国体と著しく乖離するものと断ぜざるを得ない。「バカ国民」や「日本は滅亡」といった物言いは、万世一系神州不滅をあまりにも蔑ろにしてはいないだろうか。

※いくら国連尊重と言っても、自衛隊の海外派遣の可否を国連決議に委ねるという所謂小沢論文には賛同できない。大学教授の名を持ち出すということは自分でも自信が持てないのだろう。