君が代訴訟

いわゆる「君が代訴訟」に対する東京地方裁判所の判決が出た。卒業式の君が代斉唱の際に起立しなかった教員が処分されたのは憲法違反ではないが、この処分を理由に定年後の再雇用が認められなかったのは違法だと認められた。原告の元英語教師は、「早く教室に戻りたい」という旨の声明を発表している。これは君が代の正統性を受け入れる結果になるが、元教員は控訴をしない様子だ。国旗や国歌に敬意を払わなかった者は未来永劫許されることがない、というのも、それはそれで度量の狭い社会であるような気がするので、私は概ね妥当な判決なのではないか、と思っている。朝刊を読んだ段階では都は態度を留保していた。

「国旗や国歌を、法律を定めて強制するべきではない。国歌がマンガの主題歌に決まったらあなただって嫌だろう」という意見がある。話としては面白いが、あまり高級な論理ではない。君が代には歴史的正統性があり、その上に、広く国民に受け入れられている。「国歌がマンガの主題歌に決まったら」という突飛な仮定と比較することは妥当でない。付随した状況が無視されていて粗雑な条件設定だ。こう書くと私が日の丸、君が代の法制化を積極支持しているように思えるかもしれないが、実はそうではない。私は日の丸、君が代の法制化を快く思っていない。

民主党代表の小沢一郎は、参議院選挙の結果を「直近の民意」だとしている。我田引水な言説であるし、参議院選挙は政権選択の場ではないと思うが、「直近の民意」という表現自体は面白い。大きな括りで考えれば、確かに衆参両院の国会議員は「直近の民意」が表出された存在であることには間違いはないだろう。私は日本という国を象徴する旗や歌を国会の決議や国民投票のようなもので定めるべきではないと考えている。それは富士山をブルドーザーやミキサー車を駆使して「建設」しようとするような試みではないだろうか。日本という国は、平成20年に生きている国民のためだけではなく、我々の祖先から引き継ぎ、子々孫々へと遺し伝えるものである。百歩譲ってマンガの主題歌を日本の国歌と定める国会の決議や国民投票の結果があったとしても、それは単なる直近の民意に過ぎないのである。

国家を象徴する旗や歌に敬意を払うこころは、直近の民意により定められた法律、条例の類いよりも上位にあるべきものだ。「人間は明文化された条文にのみ拘束される」という左翼の論理に私は与しない。右だからね…。

更に言うなら、教員が、生徒が主役となるべき卒業式という公の場で、「内心の自由」という個人的な事情を理由としてトラブルを起こすのは、同じく明文法より上位にあるべき人の道、規範、常識から大きく逸脱している。コンパでカラオケの順番が廻ってきたのとは訳が違うんだぜ。公私の区別が雑だ。私なら前日の23:59までに結果を出すべく行動をとり、どのような結果になろうとも、当日になったら生徒を晴れやかに送り出すことを第一に考えることだろう。

その意味で私は日の丸、君が代の法制化には反対だ。裁判所が「処分は別に憲法違反じゃないですよ」と判断することは大いに結構なことだと思うが。