人擁法反対運動の暴挙

かねてよりこの日記において人権擁護法案の反対運動により、保守言論の白痴化、空洞化が進行中である、との観測を表明してきた。これまでのところでは、私個人の観測に親しいマイミクさんがご賛同下さった、というようなレベルであったが、ついに人権擁護法案反対運動による実被害が発生してしまった。

「さつきブログ」
http://blogs.yahoo.co.jp/katayamasathuki2007/3507700.html

衆議院議員片山さつきが、自選挙区の対立陣営候補に関する報道を視聴し、「政策論議をしようじゃないか」と決意を述べる記事を書いた。どうということのない国会議員としてのブログ記事だ。この記事のコメント欄に、ハンドルネーム"珈琲好き"という人物が、政策論議という言葉を逆手に取り「あなたは人権擁護法案に賛成ですか、反対ですか」という投稿をした。これを皮切りに人権擁護法案反対派がなだれ込み、「賛成か、反対か、さっさと答えろ」「プロフィール写真に加工をしているだろう」「前首相の退陣騒動の際に暗躍しただろう」などという目を覆わんばかりの品性下劣な書き込みが後続した。

結果的に大変わかりやすいサンプルとなったが、人権擁護法案反対論者とは、このような所業をいつでも好きな時に際限なく自由に気がすむまでさせる権利を担保せよ、と要求している集団である。"珈琲好き"は以前から人権擁護法案反対に関する記事をブログに綴っていた。「さつきブログ」への投稿についても単独のエントリーを立てている。自分に続いたモブに対し「皆さん冷静に」などと呼びかけてはいるが、むしろこのような展開を最初から期待していたのではないのか。白々しいことこの上ない。そもそもなぜ「片山さつきに質問」なのか。反対派で著名な城内実との遺恨あり、という演出要素に期待してのものではなかったのか。

その後「さつきブログ」はコメントの受付を閉じてしまった。「政治家なら信念を貫け、逃げるな」と言う人もあるかもしれない。片山が同法案を推進する趣旨の記事を書き、それに対する批判コメントが殺到した後に封鎖したのであれば、その批判もわからない訳ではない。しかしながら、同法案とは何ら関係のない記事のコメント欄で特定の法案への賛否をすぐさま回答しろ、と要求するのはいかにも不躾であり、そもそも片山にこれに答える義務はない。極論すれば、議員は議会内で誠実にその職務を果たしさえすればよい。ホームページやブログは彼女の本業に附帯する広宣活動の一環に過ぎない。自分の関係する結婚式や葬式に彼女が参列しなかったからといってへそを曲げて投票しないのは自由だが、参列を強要することなどできよう筈もない。

私は、片山さつきがブログのコメント投稿を閉じてしまったことについて彼女自身が被害者だとは考えていない。国会議員は公人であり、政治家たるもの、ある程度のネガティブな批判に耐えられなくては務まらない面もあるように思う。むしろ「無礼であろう」と一喝する気丈さがあってもよかったのかもしれない。遡って閲覧すればわかることだが、問題は、このブログにコメントを寄せ、彼女との交流を楽しみにしていた支持者がいたことである。王貞治は少年時代に与那嶺要からサインを貰った時の喜びが忘れられず、決してファンの求めを拒まないという。片山さつきと接したことにより将来議員を志す者があるかもしれないが、このブログからそれが生まれることはなくなった。一部のガサツで悪意に満ちた者達の所業によってである。

看過できない暴論もあった。「女系天皇は偽天皇」というものだ。もちろん私自身、女性天皇はワンポイントリリーフが好ましいだろうと考えてはいる。しかしながら、もし仮に女系天皇なるものが誕生したとするなら、そのお方は皇室の姻族縁者であることに変わりはない筈である。言うに事欠いて「偽天皇」とは一体何事なのか。「さっさと答えろ」「写真云々」「暗躍云々」「偽天皇」…。自称保守派、自称憂国の志士だという人権擁護法案反対派は、何を保ち何を守ろうとしているのか。それらは日本の国柄と合致しているのか。

人権擁護法案反対論者によれば、同法案は似非同和や在日朝鮮人の不当な既得権益を保守し、逆差別を助長するものなのだという。その過程において憲法で保障された言論の自由が弾圧されるともいう。

曰く、

・ボヤボヤしていると○○の天下になってしまいます。
・監視社会が生まれ、自由や権利が抑圧されます。
・不当な権益は排除され、富は平等に分配されるべきです。

人々の憎悪、焦燥、ルサンチマンを煽り立てる上記のような論理は、伝統的な左翼勢力の用いる手法である、と嫌になるほど日記に書いてきた。これまでは「こうなんじゃないのか」という段階であったのに、ついに実被害が出てしまった。

私は、絶えずヒダリからの刺激を受けながら、ミギが舵を取っていくのが理想的な社会の在り方だと考えている。ヒダリの批判が予定調和では真実が埋もれてしまうし、これを引き受けるミギがなくては社会全体が瓦解するだろう。ゆえにヒダリの猿真似をするミギは危険だ、と言っている。乱暴な言い方をすれば、濡れ手に粟の権益は、理論上整然たる社会システムの実在を前提とする。亡んだ国家に権益を生み出すことはできない。一方で、憎悪、焦燥、ルサンチマンに煽られた人心の荒廃はお構いなしに何もかも全てを破壊する。

所与の秩序を基軸に人生設計した市井の勤労者である私にとって、後者の方がとてつもなく有害だ。漸進的に不当な権益を排除することは現体制でも可能な筈であり、事実、官僚の不祥事は日々表面化している。似非同和のルポ番組も珍しくなくなってきた。これはこれで嫌にはなるが。