ネット規制と日常の抑圧

少し前のことになるが、ネット上の知り合いのブログが2ちゃんねらーに襲撃された。その知り合いを仮名「ぬばたまさん」とする。ぬばたまさんには身体的なハンディキャップがある。詳細は省くが、ぬばたまさんは自身のブログに、周囲と同等の扱いを求めた体験談を掲載した。これが関係者に多少の金銭負担を強いる結果になっていたことが、2ちゃんねらーの目に留まり、ぬばたまさんに圧力がかけられた。2ちゃんねらーにしてみれば、彼らなりの公憤だと言いたかったのだろう。そんな中、私とぬばたまさんの共通の知人である仮称「うつせみさん」が「話は俺のブログで聴こうじゃないか」と2ちゃんねらーに呼びかけた。なかなかできることではない。

一連のやりとりの中で、先方の、

「次はあなたかもしれませんよ」
「地の果てまで追いますよ」

という言い回しがあり、私は嫌悪感を覚えた。彼らは、相手が身障者だろうと、外国人だろうと、正義は正義だ、という2ch的価値観を賛美し、陶酔していた。

三作目、四作目も実によくできていたが、私は映画「エイリアン」の一作目が好きだ。それは秘密の使命を帯びた宇宙船ノストロモ号の物語。宇宙船の所有者である企業は、危険なエイリアンの軍事転用、商品化を目論んでいた。事前に目的も知らされず、言わば捨て駒にされた形の乗組員たちは、後に監視役として同行していたことが発覚したアンドロイドのアッシュをリンチにかけて撲殺(?)する。首だけになってしまったアッシュはエイリアンを「完全な生命体だ」と評する。ある乗組員が「賛美しているわ」と吐き棄てる場面がとても印象に残っている。

私が「地の果てまで追いますよ」のセリフに嫌悪感を覚えたのは、何も弱い者イジメはいけない、という義侠心からではない。むしろ私とぬばたまさんは険悪だった。今回のブログ襲撃は、ぬばたまさんへの是々非々の批判ではなく、ぬばたまさんを、自身の不遜な言動を口実に、「安心して叩ける身障者」と位置付けるものだったように感じた。うつせみさんのブログで、「人々の実生活において、身障者、永住外国人への抑圧された思いがあるのではないか」と分析する人がいた。一般的に「役人がうまいことをやっているのではないか」「高齢者は優遇されているのではないか」私がボーッとしているうちに、抜け駆けして得をしている者があるのではないか、という焦燥は常に人の心に去来するものである。例えば腐敗官僚のように、漸次表面化して断罪されているものもあるが、実生活上において、身障者、永住外国人を糾弾しているケースを目にすることは稀だ。一方、ネット上という匿名空間においては、これらがかなり活性化している。ぬばたまブログへの襲撃は、「欧米か」とい
うような肩から前のツッコミではなく、バックスイングで金属バットを振りかぶったようなものに感じた。この肩から後ろへの振りかぶりの源動力は、「一言言わずにはいられない」という抑圧された彼らの情念だったのではないだろうか。この振りかぶり部分は、まっとうな批判ではなく、彼らの生理現象とも呼ぶべき性格を帯びているにもかかわらず、これら全体を、正義の審判の遂行と総称することについて大きな欺瞞を感じた。

2ちゃんねらーは、ぬばたまブログ上の断片的な個人情報を再構成して特定することも可能であるかのように仄めかしていた。嬉々としたその説明は、私の中で、エイリアンを賛美するアッシュの姿に重なった。読者の皆さんはよくご存知だと思うが、このシリーズの各作品の登場人物でエイリアンを家畜や生物兵器として有用に制御できた者は一人もいない。

人権擁護法案の反対運動が、言論の自由を守る、という大義名分の下に展開されている。事実上、抑圧された情念の解放区となっているネット空間を、二度と逃してなるものか、という執念を感じる。これは論理ではなく生理だ。このことについて無自覚なまま、正義を掲げる姿に底知れない嫌悪感を覚える。怪しげな議員が旗を振っている。勢いに乗ったエイリアンを制御できるつもりなのだろうか。