蛙昇天

木下順二の戯曲「蛙昇天」は日本共産党の徳田要請問題を題材にした風刺劇である。子供の頃、教科書に載っていた木下順二の「夕鶴」を読んだ。民話「鶴の恩返し」をベースにしたもので、欲深な仲間達に感化された主人公"よひょう"が、鶴の化身である"つう"とコミュニケートできなくなってしまう、というのがクライマックスだった。錯乱するつうの姿に少年やりちゃんのこころは衝き動かされたものだ。

私はファンタジーに風刺の要素を持ち込む時には適量を守るべきではないか、と考えている。風刺とは現実を写す鏡であり、それ自体が現実を超えることはできない。かといって現実を一切廃除すれば、恋愛や正義といったものについても描写できなくなるけれども。

「夕鶴」には、人間に化けた鶴の視点というものが物語にとてもよく活かされていて、作品に奥行きを与えていた。一方「蛙昇天」には、登場人物が蛙でなければならない必然性は特にない。人間ではあまりにも生々しいから、ということに過ぎないのだろう。その意味で「蛙昇天」純粋な風刺劇である。無垢な人間(というか蛙)が政治に翻弄され、自害に至る姿が、まざまざと描かれている。確かに理不尽なことで、現代にも似たような状況が起こり得そうに思えるが、この作品は、決して徳田要請そのものを否定している訳ではないとも言える。

日本共産党の歴史とは、「抑圧から解放されたい」という極めて人間的な欲求を政治利用する試行錯誤の集積の総和に他ならない。これは「出来心です」「魔が差しました」「今では反省しています」では済まない。「抑留者の洗脳が終わるまで、日本には返さないで下さい」という日本共産党徳田球一の要請により、シベリヤの収容所で多くの日本人の生命が奪われた。

私は街で日本共産党を見かけると、「政治活動の自由は、駅前の違法駐車をも許容するものですか」「政治活動の自由は、夜9時以降のハンドマイクの使用を無制限に保障しますか」という110番通報を必ず実名で行う。大抵の場合、警察は適切に対処してくれる。人間性の政治利用を目的とした組織には、はっきりと拒絶する意志を示す必要がある。

木下順二に限らず、日本共産党のシンパによる文学や映画は数多い。膝を詰めて語り合えば、彼らの追い求める美や理想と、実際の日本共産党の姿とは全く無縁だ、という結論に至る確信が私にはある。