裁判員制度は赤紙か

マイミクシィの老兵さんが、裁判員制度に反対の立場を日記上で表明している。記事のほとんどが引用文なので、老兵さん自身の言葉も聞いてみたい。

裁判員制度は愚の骨頂」
http://neyama.blog31.fc2.com/blog-entry-1099.html

社民党保坂展人も、かなり以前からこのテーマを取り上げてきている。殊にここ数日は、裁判員制度反対一色である。論調への賛否はともかく、情報量だけはたいしたものだ。

保坂展人のどこどこ日記
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/

そして、裁判員反対論の極めつけはこれだろうか。

レイバーネット日本
写真速報:「現代版赤紙裁判員制度実施を阻止しよう!集会とデモ
http://www.labornetjp.org/news/2009/0421shasin/

裁判員候補者通知書は、「現代の赤紙」なのだそうだ。以下、記事全文を転載する。なお、文中に21日とあるのは4月21日のことである。

【以下転載】

国民を強制的に重大事件の裁判に動員することで、「現代版赤紙」と批判されている「裁判員制度」。施行が1ヶ月後に迫った21日、東京・日比谷野外音楽堂で、制度の実施を阻止しようと集会が開かれ、1000人をこえる人々が怒りの声をあげた。

午後6時過ぎ。冷たい雨にもめげず、次々と参加者が集まってくる。6時30分、「大運動」呼びかけ人の発言で開会した。
交通ジャーナリストの今井亮一さん(写真)は、「裁判員制度は廃止するしかない。本日の集会とデモこそ、本当の市民参加である」ときっぱり。

家族問題評論家の池内ひろ美さんは、「普段は法律相談をしているが、近年、家族が壊れやすくなっていることを実感する。裁判員制度は、そんなときに夫婦間に、家族のあいだに秘密を持たせてしまう。それは絶対によくない。私の二十歳の娘に、強姦殺人事件の裁判員をやれ、と言えますか」と語った。

足立昌勝さん(関東学院大学教授)は、「この制度は、『国民が司法に参加した』というアリバイ的な理由づけのためにあるだけだ」と指摘し、「そこで見張っている警察官、ただちに立ち去れ!」
と、会場入口で監視を続けている多数の私服警官を弾劾した。

漫画家の蛭子能収さん(写真)も、一貫して制度に反対している。この日も駆けつけて、いつものように明るく意思表示した。

候補者通知を受け取ったという男性が登壇。「私は封を切らずに、最高裁に送り返した。そして実名で記者会見し、反対の意思を全国に伝えた。『人を裁かない』という私の思想信条の自由を否定する制度は、憲法違反だ。人権無視だ。全国のみなさん、いやなものはいやだと、はっきり声をあげましょう」と檄を飛ばした。

主催者を代表して、高山俊吉弁護士が発言。「当局は高い税金を浪費して宣伝したが、多くの人が通知を返送している。このとんでもない制度の幕引きにも、エネルギーが要る。この雨のなか集まった仲間が、われわれが、まず力を出そう。この国を戦争に導いていく動きに、からだを張って闘っていこう。もうひと踏ん張りしよう」とアピールした。

この後、全国で闘っている人々がステージにあがり発言した。集会宣言を採択して、デモに出発。参加者は、ますます雨脚が強まる銀座周辺を、「人を裁かせるな!
国民の8割が反対だ!裁判員制度はいらないぞ!」と力強いシュプレヒコールで訴えた。(文と写真・Y)

【転載終了】

新しい制度に反対する者が、「これは〇〇の陰謀だ。」と拳を突き上げる光景を、もう何度見てきたことだろう。勿論、世の中にはいろいろな意見があってよいが、反対の立場なら反対するだけの論理を組み立てる手間くらいは惜しまないで欲しいものだ。「陰謀だ」という問答無用の言い切りは、まるで論拠の脆弱さを映す鏡のようなものである。

左翼系の立場の人々は、国家と個人が互いに対立している、と考える傾向が強い。ゆえに死刑について「合法的な殺人は許されさない」として否定的な立場をとることが多い。「過剰に被害者へ感情移入した裁判員によって死刑判決が増えるに違いない、裁判員制度には絶対反対だ」という左翼主義者はとても多いだろう。上記引用文中の「アリバイ」という言葉は、おそらくこのことを指している。

ひねくれた考え方を脇に置いて、制度を正面から見つめれば、「司法制度に一般人の常識的感覚を反映させよう」という趣旨はとても前向きなものだということがわかる。もしも裁判所の判決に疑問だらけのものが続いていたら、司法制度そのものへの信頼が揺らいでしまうではないか。日本人には歴史的に形成され、積み重ねられた伝統的な価値観がある。例えばそれは「人を殺してはいけない」「人様に迷惑をかけてはいけない」「受けた恩は返さなくてはいけない」というようなごく当たり前のものである。高度な法務知識を備えた裁判官による判決が、合成の誤謬にも似た現象によって、ごく当たり前の感覚からかけ離れることがあってはならない、という考え方はよく理解できる。

司法制度への信頼が損なわれなければ、それは私たちの日本という国への帰属意識にもつながっていくことだろう。日頃、「選挙に行こう」「政治に関心を持とう」と言っているような人までもが、こと司法に関してだけは「専門家に任せておけばよいのだ」と豹変してしまうことが私には不思議でたまらない。

左翼との関連でもう一点。急進的に社会体制を変革しようとする勢力は、権限を一極に集中する必要がある。歴史的に誰も経験したことのない社会を実現するには、「スターリン同志こそ、理想社会の体現者」というような強烈なフィクションが必要だ。このことにより機動的な革命の遂行が約束されるのである。ゆえに私は、保守派を標榜していながら「石原慎太郎は神」「中川昭一バンザイ」というような個人崇拝に熱心な人々に「ちょっとおかしいんじゃないの」と言い続けてきた。「国政は総理大臣」「裁判は裁判官」というような一極集中は、とても左翼的な発想である。重層的な因子が権限を分かち持つという形態こそ保守思想と合致するものだ、と私は考える。国会は二院制がいい。地方分権が進んで欲しい。裁判員制度の施行は喜ばしい。保守漸進派の端くれとしては。